darling

深夜二時。

私はいつものごとく眠ることが出来ずに、
布団を頭まで被って身体を丸める。
そうしてイヤフォンで音楽を小さく流して、
あのひとのことを考える。

イヤフォンからはあのひとの好きなアーティストの曲が流れていて、
胸焼けがするくらい甘ったるい言葉を、万人の心に訴えかけるような感動的なメロディーにのせて歌っている。
歌い手の声が少し掠れているところが、歌詞と中和されてちょうどいいのかもしれない。

今まではそんなに気にしていなかったこのアーティストを、あのひとと出逢ってから毎日聴くようになった。
歌詞の意味を、あのひとに重ねて聴くようになった。
そしてしまいには、ライブにまで行くようになってしまった。
(その理由の半分は彼に会うためだけれど。)


この優しいうたを、幸せな妄想とともに聴く。
目を瞑り、あのひとの声を、顔を思い出して。
隣にあのひとはいないけれど、私は幸せだ。

そうして幸せな妄想をしているうちに突然音楽が終わり、
私は現実の世界に引き戻される。


部屋の奥で、冷蔵庫のブーンという低い音が聞こえる。

心が底冷えして、また私は枕を濡らす。
泣きながら、叶うことのない夢を抱きながら、それでもあのひとに会いたいと思いながら、
今日も夢へと落ちていく。

悪い女ほど、清楚な服が似合う

林真理子著『更衣室で思い出したら、本当の恋だと思う』
なんとなく名前に惹かれて、小説の裏にあるあらすじを目で追ってみた。

「不倫をやめられない美容マニア」 

なんて言葉が目に入ったものだから、なんだか他人事ではない気がして、買わなくてもいいような本を買ってしまった。 

結論から言うと、まあ、なんとなく爽やかに軽快に、限りなくポジティブに物語は締めくくられていて私はがっかりしてしまった。 

だって、現実ってそんなに甘いものじゃないでしょ。 
もっと絶望的で、一縷の希望も見えないようなものが読みたかったなあ。とか思ってみる。 
奥さんへの嫉妬とか、煮え切らない態度の彼への怒りとか。 
私が執筆したとしたら、普通の恋愛小説じゃなくて泥沼恋愛ミステリー小説になっているか、犯罪者の独白本になっていただろう。 

ただ、主人公が彼のために年齢に抗って美に執着する姿や、ふとした瞬間に「奥さんと私、本当にかなしいのはどっちなんだろう」と考える姿は今の自分とよく重なる。超現実的。 

それから、男のずるさもよく描かれている。 
「嫁とは終わった」と言いつつ早10年、主人公には彼が奥さんと離婚することは毛頭ないと分かっていても、それでも会いに行ってしまう。 
あぁ〜、わかるよわかる、でも「いつ離婚するの?」なんて怖くて聞けないんだよね、答えは分かってるから。 
と、妙に共感してしまった自分もいたり。 

男はずるい。 

こうして言葉巧みに操られて、今日も私は彼のことを考える。 
きっと彼にとって、私は退屈な結婚生活のスパイスでしかないんだ。 

自分のことを好きな、手軽な若い女。 
背徳と刺激を味わって、退屈な日常から少しでもエスケープしたい男のための、取っ替えのきく代用品でしかないんだ。(あら、どこかで聞いたことある台詞) 

本気なのは私だけで、彼にとっては若くて従順なところが魅力なんだろう。所詮ただの火遊びでしかない。 

そうは理解していても、頭はつねに彼のことで一杯で、身体はいつ彼に抱かれてもいいように以前より磨かれ、足は彼に誘われれば真っ直ぐ向かってしまう。 

彼から向けられる言葉がいつか偽りになることが分かっていても、それでも今は信じたい。 
そう自分に言い聞かせて、瞼をそっととじてみる。 

脳裏には彼の大きな手や、広い背中や、優しい瞳が浮かぶ。 

次に会う時には、清楚で大人っぽいワンピースを着て、彼を驚かせよう。 


彼が見惚れてしまうような、いい女になって、後悔させてやるんだ。 

嗚呼無情

今。
私の頭の中にはこの四文字が浮かんでいる。
嗚呼無情。
昔の歌手が歌っていたなあ、アン・ルイス?だっけ。
通勤途中の中央線快速の中でそんな事を考える。
まだ起きていない頭で、無駄な思考を何百、何千と繰り返す。

本日は木曜日。
一週間のなかで、もっとも頑張りきれない曜日だ。
電車のドアが開く度、涼しい風が車内に吹き込んできて心地よい。
夏が終わり、秋が肌寒さと手を繋いでやってくる。


あの人は今何をしているのかしら。
ふとしたときに、声や、香りや、繋いだ手の感触を思い出す。
その度に私は年甲斐もなく、くらくらしてしまう。
恋に恋する女子高生じゃないんだから。
そう自嘲してみても、やっぱり頭から離れないのだ。


あの人には一生を誓ったひとがいるのに。
同じ家で暮らして、同じものを食べて、同じテレビ番組をみて、ああだこうだと感想を共有する、そんなひとがいるのに。
そんな事を想像すると、恋をする幸せを遥かに超えた負の感情が心を支配する。
どんなに私があの人を愛しても、あの人は帰る家がある。家庭がある。
私は奥さんには叶わない。
大国と発展途上国のようなパワーバランスだ。
(いや、私なんか発展さえしていないのかも。)

そんなことを考えていたら、いつの間にか西荻窪を通過していた。
今日も中央線快速下りはそこそこに混んでいて、私が座れることはほとんどない。

目の前の女はせわしなく化粧をしている。


家でしろ。

そんなことを言えるわけもなく、ただただ悲しみにも怒りにも似た感情が私を支配していく。


生きることは難しくて、不器用な私にはとんでもないミッションだ。
そんなネガティブな思考をしているほんの隙にも、あの人の笑った顔や声が浮かぶ。
ひとつひとつの仕草が、私の頭の中を支配する。
窓の外はさわやかな秋晴れで、私はあの人の住んでいるところも晴れているといいな、と心のなかで願ってみた。

ひとつ、ためいきをついて

嗚呼、無情。

終電を逃して床で眠る人 
誰も来ないコンビニのレジにいる人 
アドレス帳が消えてホッとしてる人
家から外に一歩も出られない人
靴を片方なくして裸足で歩く人 
血の付いた下着をお風呂で洗う人 
割れたグラスの破片を片付ける人 
もう二度と会いたくないと言えない人
鏡に映る化け物を見て泣く人 
ご飯をおいしく食べられない人 
電車に乗ると呼吸が苦しくなる人 
きれいなものを見ると悲しくなる人
楽しかった思い出が何もない人 
自分は特別だって言い聞かせてる人 
助けを求める声を無視する人 
もっと誰かに大切にされたい人
逃げる場所も帰る場所もない人 
痛みを感じなくなってしまった人 
まぶしい光を避けて日々を繋ぐ人 
夜には朝が朝には夜が怖い人


希望があります

水の美学


うっすらと金黄色(きんいろ)のあたたかなともしびが揺れる。
真夜中、私は本を読む。
長野まゆみの、
夜鳴く鳥は夢を見る
この本を読んで、気付かされたことがある。
私のこの形容しがたい懐かしいような、
悲しいような、しかしどこかきらきらしている感情を膨らませるひとつに
水、
という存在があった。
どうしようもなく、私は水に惹かれるのだ。
静かにたゆたう透明な水。
静謐で、どこまでも碧い水。
漆黒の夜の海のような水。
此処からは、少しだけ、
私の話になる。

水の美学


黒い大理石のバスタブに
白い手足が揺れる。
四角い白いその空間に、白い光が優しく、しかし鮮烈に差し込む。
窓を少し開けると、ひんやり、と朝独特の空気が頬を撫でる。
眼下には揺蕩う海。天から光を受け
、やわらかくきらめいている。
ここ、サンクチュアリは切り立った森の上にあるのだ。

頭上には淡い濃淡を描いて、ついぞ空が白み始めるところであった。

すでに手前の空は白っぽく、そこからゆるやかに
黄橙金黄朱、赤薄紫蒼紺。
奥の空にはまだ星がまばたいていて
私は少し錯覚を起こした。
白がだんだんと空を浸食していく。
驚くべき早さで。
私はこの景色が失われることが恐ろしいと、本能的に感じた。

息を潜めて、すでに冷え切った、
黒とも透明ともつかぬ水のなかに逃げ込む。

ちゃぷん

魚になったように。
やがて水の中でゆっくり瞼をあけると、そこには白い手足が揺れていた。
行き場をなくした酸素が、まあるい弧をつくって、立ち上っていく。
私の長い黒い髪は漆黒の大理石に紛れ、時に光に包まれ発光したようにたゆたう。
白っぽい光は相変わらず水の中に差し込んできていて、そこに光の輪が影を落として浮かんでは消えていく。

私は上を向く。
揺れる透明の先に、先ほどの空がある。
まばたきをしても、やはり変わってはいない。
安堵で胸がいっぱいになる。

あの彩りを捕まえてみたい。

思わず私は空に手を伸ばす。
無数の小さな泡が、私の目の先を通り過ぎ、透明な水玉が跳ねる。
雫が落ちて、水面にまた、ちいさな輪ができる。

しかし、私の手は空に届かず、宙をさ迷った。
指の間をつんとした風がすり抜ける。
嗚呼。
私は再び瞼を降ろす。
先ほどの光景を思い出す。
水面下からみた、透明ななかの彩り。
切り取られたプラネタリウム

私はうっとりしながら、ほほえむ。
身体が沈んでゆく。

嗚呼、そろそろ、魚になるのだ。
かつて、沼に沈んでみたいと言った少年のように。
しろく、しなやかな魚になって、
此処に戻ってくるのだ。

水蜜桃の薫る、白んだ夜に。

真夜中の走り書き

初夏の檸檬の香りがほのかにするような夜。
黒黒とした空には、無数の硝子細工のようなきらめきが点々と散らばっている。
真夜中、私の甘美な部屋には
細く、うっすらと、たゆたうように
夜想曲が流れている。
机の上の洋灯(ランプ)は、
青や若草色や薄紫、麗々たる色彩のステンドグラスから成る
私が至極美しいと思ういろかたちをしていて、
ステンドグラスからぼんやりとまあるい光がノスタルジックにあたりを照らす。
この光の翳りが、一等私のお気に入りである。
さっきまでは夜想曲を聴き、
冷紅茶を飲みながら、森 茉莉の書いた本を読んでいた。
かつてのロココ様式のように、綺麗に装飾を施されたお気に入りのティーカップに
芳しい香りが広がる。
なみなみと注がれた黄金の水面には、ぼんやりと洋灯の光が反射している。
そのとなりに置かれた、森 茉莉の本。
森 茉莉をはじめ、長野まゆみやフランク・ヴェデキントや吉屋信子など
耽美な、それでいてあやしいきらめきを持った作品を私は夜想曲の供にする。
ロマンティックなピアノの旋律に、
甘美な文章。
そして、やわらかい灯りと真夜中に愉しむ紅茶。
これぞ、私の贅沢なのである。
こうして密やかに夜の時間をとめ、美の世界に身を委ねる。
私はどこかの貴族にでもなったような気分で、
今日も眠りにつくのである。